われは海の子
☆われは海の子☆
    
【1−3】 、【4−6】【7−9】
1997年1月から1998年12月まで、長崎新聞文化面に掲載されたエッセー<週1回掲載。2年間で100回を数える>


 われは海の子  −1−
 「田中千禾夫の文学碑を長崎市に建立したいので、仲介の労を取ってもらえないか」と作家の田中澄江さんから電話を頂いた。澄江さんは千禾夫夫人でもある。「わたしは悪妻でしたから」と盛んに照れていらしたが、悪妻が亡き夫の文学碑を建立しようなどと思い付くはずもない。
 すぐに千禾夫先生宅を訪れて詳しくお話を伺い「ぼくでよろしかったら」とお引き受けした。いわずもがなであるが、田中千禾夫は劇界の重鎮であった。
 明治38年に長崎市に生を受けたこの独特の観念の世界を持つ劇作家は、その頑固が衣を着ているような風貌と一糸乱れぬ息づかいと頑なまでの劇作術で、こまやかに人間の心理を描写した。すでに処女作「おふくろ」でその語彙の豊かさと対話術は絶賛されている。
 その後、戦後までは沈黙を守り、戦後の作風は観念的実験的なものへと変わっていく。
 テーマは「自我と絶対者の対立」という宗教的なものになったのである。作家は風土で育つ。長崎を歩けば田中千禾夫がこの土地に育まれたということがよくわかる。長崎も頑固で頑な、観念と前衛の街である。
 そして、一歩踏み込めばたっぷりと熱い情が溢れる人間が生きている街である。ぼくも肥前の生れである。松浦市である。「同じ肥前の生れなのに、田中千禾夫とあなたの作風はなぜこれほどに違うのか」とよく質問される。その度にぼくはこう答える。「田中千禾夫の肥前には天主堂があった。ぼくの肥前には天主堂がなかった」。天主堂の変わりに、玄界灘があり、炭鉱があり、元寇の役があった。その違いである。
 田中千禾夫先生が「神の子」であるとするならば「われは海の子」なのである。澄江さんからは丁重にお手紙も頂いた。
 『浦上天主堂の構内に「マリアの首」の碑を建てると千禾夫の病床で何度もいい「一緒に除幕式にゆきましょう、元気になってください」とはげますにつけ、彼のさいごのうわ言は「長崎へゆかう、長崎へゆかう」であったので、完成を見ずに逝かしたのが心残りでなりません』。
 先日、やっと浦上天主堂の川添神父を尋ねることができた。秋日和で長崎はよく晴れていた。川添神父は、浦上教会の神徒だった永井隆博士に、イタリアの医師会から送られたマリアの像のある植え込みの脇はどうかと指をさされた。その場所は天主堂へ続く道の側にあった。絶好の場所である。
 「千禾夫先生は幸せな劇作家ですね」そう呟いて、ちょっぴりうらやましくもあった。「神の子」は神に召されたが、浦上天主堂の絶好の場所に、その代表作・「マリアの首」の一節が刻まれた文学碑が建立され、永遠に残るのである。
 劇作家は、物書きとしては目立たぬ地味な存在である。その劇作家の文学碑が浦上天主堂に建立され、永遠に残るのである。これは文学史上でも事件ではないのか。「われは海の子」のエッセエの連載はそんな感慨から始める。
 この連載が半年になるか一年になるか、生まれてからいままでの、ぼくの人間として劇作家としての半生の思いの丈を、存分に書き殴るつもりでいる。


 われは海の子  −2−
 名刺の肩書きに「劇作家」と刷ってあるのを見て、首を傾げる人がいる。どうしても劇作家という肩書きが理解できないらしい。「作家ではないのですか」といぶかしがられる。「作家ですが、劇を書く作家なのです」といいながら、それからの説明はややこしくなる。
 小説家だって小説で劇を書く作家である。ただし、小説家は文章と台詞でひとつの世界を構築して、そこで完成させることができる。
 劇作家は、戯曲を書き上げてからが勝負である。稽古場で戯曲読みという厄介な作業が待っている。戯曲読みとは、その戯曲を書いた作家自らが、声を出して戯曲を読むことである。ト書きから役名台詞まで、一言一句欠かさずに読む。俳優やスタッフは真っさらの台本とにらめっこしながら、間違いや訂正箇所がないかをチェックする。テープレコーダーが回される。誤字脱字や史実との違いなどを指摘しようと、辞書や歴史書を山と持ち込んでいる意地の悪い輩もいたりする。もちろん、戯曲を書く場合は相当量の資料を収集し、丹念に取材をし、どこからどう責められてもまず詰まることはないように準備おさおさ怠りなくしているつもりではあるが、それでもやはり間違いはあるものである。
 例えば、ぼくの処女作「トンテントン」では・「もう祝言はたかなわたい」と書いて、戯曲読みで「これはたけなわの間違いではないのか」と若い俳優に鋭く指摘された。「これは松浦の方言である」とまだ若かった劇作家は若気の至りで突っ撥ねたが、松浦でも「たけなわ」を「たかなわ」とはいわないのではないか。
 若気の至りが新しい方言をひとつ誕生させたわけである。言葉は生きている。時代に揉まれて、新しい言葉が生れ、古い言葉が死んでいく。
 「あなたは、なぜ方言にこだわって戯曲を書くのか」とこれもよく質問されるが、方言にこだわることにそんなに深い意味があるとは思えない。「トンテントン」は二十歳の冬に書いた戯曲であるが、これも方言で書こうと決めて書いたわけではない。テーマが言葉としての方言を選んだのである。
 子供の頃によく聞かされた「嫁盗み」がモチーフになっている。洋画の「卒業」も嫁盗みがテーマになっているが、それより遥か早くにぼくが書いていたわけだ。東京の三畳しかない汚い下宿屋で、ぼさぼさ髪のどてらの小生意気な青年が、炬燵にうずくまって原稿用紙に向かっている姿を想像してみればいい。
 「嫁盗み」の話は祖母がよくしてくれた。「こりはここだけの話ばって」とよく噂話や昔話をしてくれたが、そのここだけの語り口は絶妙でありリアルであった。
 映画監督になりたかったぼくが、映画の世界の斜陽を嫌というほど知らされ、映画の師匠である岡本喜八監督から「諦めろ」と諭されて、泣く泣く彼の下宿屋で書いたのが処女戯曲「トンテントン」である。トンテントンは佐賀県伊万里市の喧嘩祭りである。二十歳。すでに、ぼくの中には「望郷」の念があったのである。
 昭和二十年、この運命の年にぼくは長崎県松浦市星鹿町に生を受けた。その頃は、長崎県北松浦郡星鹿村といったはずである。
星鹿は西の果ての漁村であった。


 われは海の子  −3−
 昭和二十年四月八日、天皇が「本土決戦」を決意した年に、ぼくは西の果ての漁村に産声を上げた。さぞ、けたたましい産声だったのではなかろうか。その年、二月に硫黄島玉砕、三月に東京、大阪大空襲、四月にアメリカ軍沖縄上陸、七月は日本全土が空襲にさらされて、八月六日には広島に、九日には長崎に原爆が投下されて、八月十五日に日本は無条件降伏をするのである。
 そして、日本は生まれかわった。新しい日本の誕生である。新しい日本の誕生が、ぼくの誕生と重なっているわけだ。戦後史がぼくの自分史ともぴたりと重なるわけである。自分史が戦後史とぴたりと重なるという意味は、物書きとしては、あらかじめある運命を背負ったということがいえるのかもしれない。
 もちろん、昭和二十年八月十五日の記憶はぼくにはない。しかし、その日の正午の天皇の「終戦の詔書」がラジオから流れているシーンを、ぼくは鮮明に思い浮かべることができるのである。蝉時雨が降り、透き徹った青空には入道雲が溢れるように沸いている。薄暗い座敷のラジオからは、昭和天皇の声がしている。
 「耐エ難キヲ耐エ忍ヒ難キヲ忍ヒ……」。座敷でうずくまって聞いているのは、羽織袴で威儀を正した老人と丸髷の老婆である。庭先では、もんぺ姿の女たちが泣き崩れている。国民服の男たちは、帽子を握り締めて、震えを堪えている。ぼくには、忘れようとしても忘れられない強烈な色彩の人と原風景の記憶が幾つかあるが、この風景もそのひとつである。まだ、生まれたばかりで物心もついていないぼくが、もし実際にこんな風景が西の果ての漁村であったとしても、覚えているはずもない。
 映画やニュース、記録写真や小説で読んだり見たりしたものを、知らず知らずに実体験の記憶として錯覚しているのかもしれない。記憶とはあやふやなものである。「人の記憶は幾つぐらいからあるのか」とよく議論されるが、人それぞれであるようだ。人は、断片的な記憶の幾つかを繋げて、自分のいいように記憶しているものなのかもしれない。
 『鬼火』という作品で「人はやったことは忘れても、やられたことは覚えているものである」と書いたが、そうしたものかもしれない。『鬼火』の副題は「恨みに時効なし」である。故郷を思う気持には、愛と憎しみがない混ぜになっているようである。人は愛と憎しみをない混ぜにしながら故郷を思うのではないだろうか。
 いじめや、意地悪、仲間外れ。人間が生きているのである、そうそういいことばかりではない。しがらみもある。ぼくの父は土地の人間ではなかった。島根県から流れて来て、星鹿の魚協に勤めていた人間である。
 酒が好きな人で、よく酒ばかり飲んでいた。先日、父の八十歳の祝いの席で「あなたのお父さんは、いりこの検査で、始めは厳しく実直に判を押していたが、酒が入ると気前よく判を押していた」と父の友人が笑いながら語っていた。松浦では「煮干し」のことを「いりこ」という。
 酒の好きな父だったが、やはり余所の土地では疎外感を味わっていたようだ。まだ日本自体が貧しく「余所者には容赦せず」という言葉が生きていた。