われは海の子
☆われは海の子☆
    
【1−3】   【4−6】 、【7−9】
1997年1月から1998年12月まで、長崎新聞文化面に掲載されたエッセー<週1回掲載。2年間で100回を数える>


 われは海の子  −4−
 松本清張に『砂の器』という小説がある。松竹で映画にもなった。野村芳太郎監督の名作である。映画が原作を越えた稀有な例かもしれない。それほどに、この映画は観る人の胸を締めつける。
 当時は不治の病とされた疫病のために村を追い出された父と子が、お遍路さんとなって日本中をさすらう話である。やがて、父と子は理不尽に引き離される。子はその生い立ちを隠して流れ歩き、空襲で死滅した奉公先の人となり、ついには大作曲家となるのである。父は瀬戸内海の島に隔離されて生きていた。子に殺人の嫌疑が掛かり、刑事は瀬戸内海の療養所まで尋ねて、息子の写真を見せる。息子が立派に成長した姿に父は涙するが、かすれた声で「そんな人、知らない」という。
 自分の血が息子に流れていることを否定する、精一杯の叫びである。
 映画のクライマックスはここからである。刑事は「この親と子がどんな旅をしたかは想像するだけで二人にしかわかりません」と捜査本部で報告する。映画は父と子の旅の回想となる。・「宿命」をテーマにした交響曲が流れる。昭和十七年、父と子がお遍路さんとなって村を離れる場面である。村外れの峠から、朝靄に霞む生れ故郷を名残惜しげに見ている父と子。遠くで畑仕事をしていた村人が、手を休めて挨拶をする。それに挨拶を返す父と子。遠景で、畑仕事をしている村人の表情はよくわからない。しかし、表情がよくわからないからこそ、この父と子を村から排除しなければならなかった村人の痛みがよく伝わる場面なのである。この場面を遠景で処理した野村芳太郎監督は、すでに原作を越えているのではないだろうか。遠景で、頬被りをして鍬を持った村人に「なんとかしてやりたいが、なんともならん」と無言でいわせているのである。この父と子を村から排除しなければ、村は崩壊するかもしれないのである。疫病が、それほどに恐れられた時代でもあったのだろう。「村社会」という言葉があり、これは排除の論理の典型の言葉としてよく用いられるが、村が村としての秩序を保つためには、余計者は排除するしかなかったのかもしれない。
 『砂の器』は、「村社会」から排除されて、流浪の民となった親と子を描いた悲劇である。この二人を排除した村の人々を責めるのはたやすい。だが・「村社会」もぎりぎりで生きていたのである。戦争が激しくなり、物資が乏しくなり始めた時代。集団疎開や縁故疎開で村へ突然にやってきた学童たちもそうだったのではなかろうか。食い扶持を減らそうと躍起になっている村へ、食い盛りの学童が疎開してきたのである。まして、きれいな標準語を喋り、躾の行き届いた品のいい都会の学童に・「村社会」の悪たれが黙っているはずもなかった。陰湿ないじめがあったはずだ。村の悪たれたちは「村社会」の尖兵であった。この話が『鬼火』という戯曲にまで発展するのである。ぼくは「余所者には容赦せず」という言葉から、すぐに映画『砂の器』の父と子と、疎開を余儀なくされた子供たち、そして満州からの「引揚げ者」を思い浮かべる。
 このどれもが「流浪の民」なのである。


 われは海の子  −5−
 「流浪の民」から、すぐにイメージされるのはジプシーである。哀切のギターの調べに激しく踊る女のイメージ。その「流浪の民」と「われは海の子」には同じ言葉の響きがある。どちらにもさすらい人という感傷が滲んでいる。感傷とは・「望郷」の念であるといってもいい。生まれながらにして「望郷」を背負って生きなければならない人もいるのである。唱歌「われは海の子」には”煙たなびく苫屋こそ、わが懐かしき住家なれ“と歌われているが、あの苫屋が先祖代々の由緒正しき家とはとても思えない。あれは仮の住まいではないのだろうか。ぼくは、西の果ての漁村で生まれたが、家は仮の住まいであった。星鹿半島の突端には城山がある。父母は、その城山の麓の親戚の家の裏の別棟を借りて生活をしていた。仮の住まいである。その仮の住まいの前は石垣になっていて、すぐ下には海があった。その磯ではよく遊んだ。一人遊びが好きだった。絵を描くのが好きで、海の絵もよく描いた。台風が過ぎた翌日の磯には、いろんな物が流れついて来た。手足のもげたセルロイドの人形、ハングル文字の瓶、中国製のビニール製品。犬や猫の死骸もあったし、珍しい外国の骨董品なども混じっていた。椰子の実も流れついていた。台風が過ぎた早朝の磯の風は、子供心にもうまかった。
両手に余るほどの鮃を素手で掬って掴まえたこともある。台風で弱っていたのだろう。たしか五歳だったはずだ。あまり人と群れて遊んだという記憶がないが、表の親戚の家にはよく遊びにいった。この一家は満州から引揚げてきていた。いわゆる「引揚げ者」である。仏壇のある座敷でよく喉自慢大会をやったものである。ぼくは“風か柳か勘太郎さんか”の「勘太郎月夜」が得意だった。いまでもカラオケは得意である。裕次郎と小林旭は任せていただきたい。中国の言葉も教わった。この親戚の家の主は内野賢一という堅物であった。ぼくは「賢おんちゃま」といって慕った。「おんちゃま」は「おんちゃん」の敬称である。「おんちゃん」とは、わが松浦では「おじさん」の意味である。冬の夜、火鉢に車座になって賢おんちゃまが語る満州と引揚げの話は、面白くて怖かった。ぼくは、賢おんちゃまの話で満州の荒野とそこに生きている人たちをはっきりとイメージすることができた。それほどに賢おんちゃまの話は巧みで臨場感があったのである。この賢おんちゃまの息子が、後年、思春期のぼくの指南役となる内野正昭である。この頃の記憶では、強烈な夢の記憶がある。不気味なおかめの夢である。おかめは、愛嬌のある女のお面であるが、そのおかめが炎のような陰影をつけて、大写しになってぼくを襲ってきた夢である。もう、その夢の前後は忘れたが、あのおかめの表情だけは今も忘れられない。笑いながら、憎しみを込めてぼくに迫ってくるおかめのお面。これがなんなのか、夢に詳しい人に聞けばわかるのかもしれない。ぼくは、泣きに泣いて目が覚めた。顔は涙でぐちゃぐちゃだった。よく泣く臆病な子供だった。公民館に「怪談」の芝居が掛かって、怖いもの見たさについて行ったが、とうとう最初から最後まで顔を上げることはできなかった。ぼくは、そんな子供だった。


 われは海の子  −6−
 よく泣く臆病な性格のくせに、妙に強情っぱりで負けん気だけは強く、頑固で意地っ張りで、なんとも可愛げのない小憎らしい子供だったようだ。やることなすことが、小生意気で小賢しい子供というものはいつの時代にもいるものである。始末におえない。いまは、幼稚園や小学校の先生に贔屓はないのだろうか。少なくとも、ぼくの子供時代には贔屓はあった。贔屓されるのは分限者の家の子供や教育者の子供だったような気がする。「分限者」とは裕福な家のことである。とっくに死んだ言葉である。ぼくは「分限者」の言葉の響きからは、裕福な家というだけではなく「家」そのものの重さを感じていた。「分限者」という言葉には「先祖代々の由緒正しき家」という響きがあった。仮の住まいで生れ、そこで寝起きしていたぼくが、この分限者の家の子供に嫉妬と羨望を抱いたとしても、なんの不思議もあるまい。分限者とはいっても、西の果ての漁村の分限者である。それほど由緒正しき家柄であるはずもない。しかし、その家には「先祖代々、この土地で生きている」という誇りが漂っていた。
その家には「家」の秩序があり、質素な身なりの老人や老婆に至るまで「家を背負っている」という自覚と威厳があった。「この家を汚すな」。「家」の威厳と誇りに躾られるのである。朝な夕なに仏壇を拝み、盆には墓参りをする。躾とはそうしたものである。岡部家の墓は星鹿にはない。ぼくの家には、盆に先祖の墓参りをするという習慣はなかった。参ろうにも参る墓がなかったのである。家には仏壇もなかった。その土地に墓があり、家に仏壇がある人が「村社会」を形成する資格を持っていたのではないだろうか。ぼくの躾はなってなかったのである。こんな記憶がある。黄昏どきになるまで、お寺の境内で一人遊びをしていた。秋の日は釣瓶落としである。秋の夕暮れのあまりの寂しさに、家へ走って帰ろうとして、村外れの老婆にこっぴどく怒られたのである。棒っ切れで、老婆の家の庭の花を散らしたのだ。老婆は口汚なく罵った。怖かった。あれは『八つ墓村』の老婆みたいで怖かった。老婆は、花を散らしたことに怒っているのではなかった。「俺はゼェッタイに散らしとらんけん」と言い張っているぼくに老婆は怒っているのだ。「なんちゅう強情っぱりじゃろかい」と怒っているのである。老婆の目の前で散らした花である。謝ればそれですむことだったはずだが、頑として謝らなかった。嫌な性格である。
人の性格は生涯直らないのかもしれない。「どこの子供じゃろかい」と老婆は呟く。「岡部さんがたの耕大ちゃんたい」と縁側で手仕事をしていた嫁さんが言う。・「ああ、岡部の耕大ちゃんね」。老婆は「それならばしようがない」といった表情でぼくを見た。ぼくは本名を「耕大」という。「耕大」と書いて「耕大」である。ペンネームが「耕大」である。ぼくは耕大の響きが好きだ。ぼくは老婆の表情から「土地の者ではない」「氏素性もわからない」といった、侮蔑と屈辱を嗅ぎ取ったのである。子供の頃から勘は鋭かった。海に沈む夕陽が震えるほどにすばらしかったのをはっきりと覚えている。