われは海の子
☆われは海の子☆
    
【1−3】【4−6】   【7−9】
1997年1月から1998年12月まで、長崎新聞文化面に掲載されたエッセー<週1回掲載。2年間で100回を数える>


 われは海の子  −7−
 ぼくの少年時代は、大人が子供をよく叱る時代だった。それが余所の子供だろうが家の子供だろうが、悪戯や悪さをしている子供を見つけると容赦なく叱った。場合によっては殴った。それも堅い拳骨で力いっぱい殴った。ぼくらの世代は拳骨の味を知っている世代である。よくたんこぶをこしらえていたものである。昭和二十年代、日本にはまだ軍国主義の名残りがあった。偉い人はもちろん、先生も巡査も、自転車に乗って通り掛かった郵便配達のおじさんも、悪戯や悪さをしている子供は容赦なく叱った。「これを見過ごしては、この子の将来が危ない」。つまり、この悪戯や悪さを見逃すといずれ「村社会」に災いを及ぼす人物になるのではないか。「反逆することの空しさをいまから叩き込んでおかなければいけない」。昭和二十年代の日本には「民族意識」や「正義感」が根強く残っていたのである。日本人が「民族意識」や「正義感」を喪失していくのは、昭和三十九年の東京オリンピック以降である。あのオリンピックで、日本はやっと「民族意識」や「正義感」からの呪縛を逃れたのではないのか。東京オリンピックを堺にして、日本人は人を叱らなくなった。「恨まれるだけ損」。
 日本人は「根性」や「義理人情」「恥」といった言葉を嘲笑うようになったのである。東京オリンピックのマラソンランナー、円谷幸吉の遺書「疲れきってもう走れません」は、日本人すべての遺書だったのである。ぼくは色紙に「情」「心」「魂」といった文字を好んで書く。若手の劇作家が嘲笑っていたが、これを嘲笑っているようではいい芝居は書けない。あの日、ぼくを口汚なく罵ったあの老婆も、見え透いた嘘をつくぼくに「この子を放っておくと、やがては国家に盾を突く反逆者になるのではないか」という危惧を抱いたのかもしれない。確かに、嘘も見え透いた嘘はいけない。嘘は墓場まで持っていってこその嘘である。しかし、ぼくはついに大嘘をつくことを生業にする劇作家になってしまった。
そして、いまでも見え透いた嘘をつく悪癖は抜けず閉口している。嘘が見破られたドラマは愚作でしかない。まだ修行が足りない。あの日、老婆の説教にもっと素直に耳を傾けていれば、ぼくはもっとうまく嘘がつける劇作家になっていたかもしれないのである。老婆に怒られながら、ぼくは海に沈む夕陽に見惚れていた。老婆の家のラジオからは、美空ひばりの「私は街の子」が流れていた。街の子のポケットは夢とチューインガムで膨らんでいたが、坊主頭の海の子は破れたポケットに手を突っ込んでふてくされて海を見ていたのである。「海の彼方にはなにがあるのだろう」。ふてくされながら、そんなことを考えていたのである。「自我の目覚め」とは、あの日のことをいうのではないだろうか。西の果ての小賢しい嘘つき少年は、あの日に自我に目覚めた。「われは海の子」は、ビルやマンホールを遊び場にしている「私は街の子」で自我に目覚めたのである。ぼくの「自我の目覚め」は激しい敵愾心の目覚めであるといってもいい。昭和二十五年の秋の夕暮れであったはずだ。あの日の夕陽は「ごうごろごろ」と、燃えるようにゆっくりと海の彼方に沈んでいったのである。


 われは海の子  −8−
 「円谷幸吉は、なぜ振り返らなかったのだろう」。それを知りたくて、円谷幸吉の生れ故郷を尋ねたことがある。「幸吉はもうすっかり疲れ切って走れません」の遺書を残し、剃刀で右頸動脈を切って自殺したあの円谷幸吉である。二十数年も前のことである。陸奥の玄関口、白河関から北へ二十五キロ程離れた福島県須賀川市が幸吉の生れ故郷であった。実家は、囲炉裏のあるがっちりとした造りの百姓家だった。幸吉の父、円谷幸七が丁寧に対応してくれた。東北の人らしい丁寧さであった。昭和十五年、幸吉は安達太良山の麓で生まれた。その年、日本は紀元二千六百年である。そして、世界を覆う戦雲に遮られて、日本はアジアで初めて開く筈の東京オリンピックを中止しているのである。円谷幸吉は時代の子であった。昭和三十九年、円谷幸吉は、東京オリンピックでヒートリーとデッドヒートを繰り広げた。四二・一九五キロのマラソンレースの終盤、しかも場内でのデッドヒートにスタンドの観客は総立ちとなった。スタンドには日の丸の旗の波が揺れていた。「円谷、振り向け」「振り返るんだ、円谷」。ヒートリーの激しい追走に大観衆は絶叫した。しかし、円谷幸吉はついに後ろを振り返らなかった。ヒートリーは一気に幸吉を抜いた。テレビで見る円谷幸吉の顔は、苦しそうに歪んでいた。「わたしの教育が間違っていたのかもしれない」。円谷幸七は、皺だらけの顔で、短くなった煙草の灰も落とさずに、遠くの安達太良山を見詰めたままそう呟いた。ごつくて節くれだった手だった。幸七は家の一角を改築して「円谷幸吉記念館」にしていた。メダルや賞状が陳列してあった。大きく引き伸ばした、自衛隊の制服を着た幸吉の写真もあった。血なまぐさかった。写真の幸吉は、少し微笑んでいた。筋肉質で骨太の顔である。
古い日本人の顔である。父の幸七も幸吉にそっくりの顔をしていた。「新選組」の近藤勇がこんな顔をしている。幸七は規律を重んじる軍隊生活が肌に合う人だったらしい。幸七は「小学時代、運動会で後ろを振り返った幸吉を怒ったことがある」といった。「男は決して後ろを振り返ってはいけない」と凄い剣幕で怒鳴ったらしい。「振り返ることは恥ずかしいことである」。そして、この父は「何事にも骨身を惜しむ者を最も憎んだ」という。冬は、雪に埋もれる土地である。幸吉は、その閉ざされた「村社会」の中で、こんな強靭な精神力を持つ男に徹底的に鍛えられたのである。父は子に、囲炉裏端で「忠孝」や「滅私奉公」を説いたのではないのか。外は吹雪いている。仏壇には灯が灯り、家は雪で軋んでいる。円谷幸吉は「忍耐」という言葉を好む男になっていた。幸吉の自殺の原因はいろいろと取り沙汰された。しかし、自殺や殺人の動機はひとつではない。幾つかの原因が重なり合って、直接の動機となるのである。幸吉は、父の教えを守り、振り返らず従順にひたすら走った。なにか重いものを背負っているように、苦しげに走った。振り返ることは父への反逆であった。父の後ろには「家」があった。「家」の後ろには「国」があった。国も「国家」という家のひとつである。幸吉には、それがなによりの拠り所であった。


 われは海の子  −9−
 生れついての貧乏はそれほど苦にはならない。貧乏が苦になるのは、贅沢を知った後の貧乏である。
日本人が贅沢の味を知り始めたのは、東京オリンピックの時代ではなかったのか。日本中が、どっと総天然色の時代になったような気がする。総天然色という言葉も、いまではすっかり色褪せてしまった。
あの時代に、日本人は「国民意識」と「正義感」を喪失した。そして・「清貧」に甘んじる人や・「恥」という言葉を口にする人を疎んじるようになっていたのである。「繁栄」こそが美徳となっていったのである。
あの時代から、日本人は狡賢こくなっていく。「祖国」という言葉もあの時代に死んだ。昭和三十九年、東京オリンピックの年に振り返らなければいけなかったのは、「父」と「家」と「国家」を背負って走り続けた円谷幸吉だけではなく、日本人のすべてだったのである。猛スピードで走る新幹線には振り返る窓はなかった。日本に貧富の差が激しくなったのは、あの時代からではないのか。人が人を嘲笑う時代になったのである。ぼくの少年時代には貧富の差はさほどなかった。だれもが貧しかった。貧しかったが、朗らかだった。「さあ、これからだ」。透き徹るような青空の下で、人は腕捲りをした。無条件降伏をしたあくる日には、人は敗戦のことなどはすっかり忘れて生きていた。忘れなければ生きていけなかったのである。マッカーサーは「戦後民主主義」と舶来の缶詰を土産に賑やかにやって来た。缶詰の中には「明日」と「希望」がびっしりと詰まっていたのである。日本人は、新しい日本の誕生に有頂天になっていた。「人は反省はするのである。ただ、すぐにそれを忘れる」。好きな言葉である。人間はそれほどに逞しい。昭和二十五年、日本は朝鮮戦争の特需景気に沸いていた。日本は、ついていた。海峡を隔てただけの、隣の国の戦争で稼いだのである。日本は復興していた。軍港がある佐世保の特需ブームは凄かった。佐世保には闇市もあり、人間のるつぼであった。エネルギーに満ち溢れていた。
母に連れられて佐世保に遊びに行った記憶がある。松浦から、山ひとつ隔てればすぐに佐世保である。
焼け跡には戦災孤児がいた。母に手を引かれているぼくを睨んだ戦災孤児の目は、いままでぼくが知っている子供の目ではなかった。羨望と嫉妬と諦めと恨み。ぼくは凍りついた。彼はいまどうしているのだろうか。西の果ての漁村もどことなく華やぎ始めていた。「おくんち」で、満艦飾の大漁旗を旗めかせて星鹿港を行列する漁船も派手になっていた。西の果ての「村社会」には、山に囲まれた北国ほどの閉塞感はなかった。どこかおらかであった。円谷幸吉が「土と従順」であるとするならば、ぼくは「海と反逆」なのである。すぐそこに海がある。海外脱出を企てようとすれば、すぐに企てられた。なにも裕次郎の日活映画みたいに、神戸から大袈裟な脱出を企てなくてもよかったのである。漁船の底にでも隠れていれば、すぐに海外脱出ができたのである。ぼくは、いつも海の彼方を夢見ていた。